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【 浪花其末葉 】

徳川文芸類聚、浪速叢書(15:2〜30)によった。義太夫年表近世篇の引用部分についてはルビともにこれに従った。


興行年月も義太夫年表近世篇に従った。


( )内はルビ、[ ]は注記、白抜きの「吉」は[白]と注記した。


 

浪速叢書版解題

一 『浪花其末葉』の原本は、堅三寸五分、横五寸二分の枕本型、評判記型の横本で、序文一丁、本文廿二丁、都合二十三丁の浄るり評判記である。

一 『浪花其末葉』は、延享四年(我が二四〇七西暦一七四七)の二月に上梓された。著者は竹遊二笑と、その序文に署名してゐるが、何人であるか私は知らない。

一 『浪花其末葉』の上梓された年は、延享四年、即ちその年の七月に、寛延と改元されてゐるから、浄るりからいつて最上の爛熟期の評判記である。別項の『東西評林』の解題の条にも述べた如く、浄るり道の峠の頂上であるとともに、もう衰運の下り坂に足を踏込んでゐた時代だ。そして『東西評林』が、東西の竹本豊竹の二座の評判であつたが、この『末葉』時代には『竹本、豊竹、外に新操の陸竹小和泉座がある。

一 『浪花其末葉』と『東西評林』とを、並べ掲げて、数の少い浄るり評判記の代表とするとともに、浄るり最盛時代の斯道を、これでうかがふことが出来ると思ふ。猶ほ『東西評林』解題の条を参照されたい。

一 『浪花其末葉』を、今一つ浄るり史上から観て、有意義だとして、茲に採録したわけは、『東西評林』の条りでも申したやうに、東西両座の入替り、即ち竹本此太夫が、例の九段目事件で、竹本座を去つて、東に転じて、豊竹竹筑前少掾となつた。これと入替りに東より大隅掾、千賀太夫、長門太夫らが、西に来たといふ騒ぎが、寛延元年(我が二四〇八西暦一七四八)八月のことで、恰も、この『末葉』が延享四年(我が二四〇七西暦一七四七)の二月に上梓されてゐるから、東西両座入替りの最後十年を浄るり最盛期として、『末葉』と『東西評林』とが、丁度、その最盛期を挟んでゐることになるのである。以て、この浄るりのこの二評判記の位置がわかると思ふ。

一 『浪花其末葉』の原本は、解題者の所蔵本を用ひた。(石割松太郎記)


 

浪花其末葉序

 

琵琶法師が平家を語り、扇子掻ならして拍子取る、是かや小野のお通がむかしがたり、仮初に筆を染たるも、いづれ音曲の始めとして、終に井上播磨がなき面影、今竹本の末廣く、陸奥茂太夫がいにしへ、尽ぬうき世のかず/\、ゑしれぬ事を書つらね、あやしき鬼のうれひ、幽霊の所作事、知らぬ国々の風景も、偽まじりに文花をつくせば、それ/\の節章清濁のわかちをなして、人々の目を驚かし耳をさはがす、是も又怪力乱神の咎にや落ん、我も又それになぞらへ、ゑしれぬ事を書つゞりて、浪華其末葉と題する而已、

延享四の年きさらぎ末つかた

作者竹遊三笑

卯いてくる拍子の撥音ひいたり、

御ひいき心を立ぬく初日の大幟

武道の矢声は家に伝る根づよい    竹本

色事のせりふはしつぽりとやはらかな 豊竹

新操の陸竹に見物はわいてくる    小泉

 

○大臣の乙声に微塵ひるまぬ女郎のかん声

室咲の初めより、紅梅の色よきも、終には桜にかはり、木の下影に幕打はへて、詠メにあかぬ一樹のやどり、それは名にあふ紅葉狩、ふしぎや今迄ありつる花の散がてになれば、水無月も過、七夕の笹釣ざほの糸、長くたへせぬ四季の樂み引かへて、いつも替らぬ桜色は、通ふにまさり逢てかこち、さすが岩木にあら男も、ついにしゆす鬢と成つて、飛ざやの帯何となく、たけ長き羽織、素足にばら緒の足元ゆたかに、あまりぎらつかぬを落しざしに、茶筅髪の小者つれたるは、疑ひもなき難波の粋と呼れし延四大臣、南島にては足代貝塚が槌で庭、箒は此里のきんもつとかや、先新春の御慶、サァ/\奥へ御來臨、御約束遊ばせし松屋のときは木さま、アレ奥に待兼てござります、そりやお盃お吸物と騒ば、末社の万介、二三四の幸助、鼠なきの忠七、名代役者のこはいろ、小女郎のさんがつまみ喰は、百助が真似じやと口がましき牽頭が拍子と共に、飲かける底なし共、今の世に素盞鳴尊が居給はゞ、爰にも大蛇あるかとあやしみ給ふべし、私もちつとおあい致たふござりますと、亭主が一種もつて出るは、生貝に生姜酢、肴は是で仕廻といふことか、イエ/\女郎さま方を、今年も來年も旦那のお仕廻といへば、是は出かした、幸ひ此盃はいかふもめてある、そなたひろふて一ッ飲と、いつもながらの一角、忝しと盃取上れば、中居のとよがてうどついで、銚子かへに立てば、大臣を始め末社牽頭も一同に、コリャあじやつたと手を打ッての御機嫌、亭主もあたまをかいて、どうで私に何ンぞ意趣が有ルか存ませぬ、あのやうにすりや、猶堪忍はならぬとつぶやくにぞ、道理で嚊の目をぬいて、実悪仕出しの色でないかと、後は大笑ひになつて、一座興をもよほす折しも、襖一重となり座敷に、何やらこは高な女のせり合、どういふわけじやと聞耳たつれば、サァあのせり合について、いはく段々有磯海、底意をお聞なされませ、丁子屋の花世様、桔梗屋の染菊様、其外いづれも名代の君達、最前からふつと浄るり太夫の咄しについて、せりあふてござります、何ンと替つた事ではござりませぬか、何ンじや浄るりの事、是は合点のいかぬ、女郎衆のせり合には不相応な、ソレ幸介忠七、かしこまつて両人、となり座敷へちよくしに立、コレ/\いづれも様、先々おしづまりなされ、我々が旦那延四大臣、襖ごしに各方のせり合を聞て、とくと訳を承り、よろしく御取持申たいとの事、くるしからずば間の襖をとつて座敷を打込、始終の様子仰られば、此旨申上いとの御事と聞もあへず、イヤ/\内証のあらそひ、余の人の耳へいれることじやない、お心ざし忝いと、よふ云ふてくだんせと、腹立まぎれぴんとした口上、サァそこが談合所、訳は旦那に直におつしやれ、先々此襖が邪魔、不作法ながらと押明クれば、大臣大様に、君達これへと打招き、マアどうした訳で色よき顔に、火花をちらさるゝと尋ねられて、ぜひなく染菊がづゝと出て、マァ聞てくださんせ、此里の女郎さんがたは、新九さんの又太郎さんの、いぢの悪さうな大五郎さんに迄打込ムおさんもあれど、わたしらはあの西の此太夫さんが、思ひ入レふかふ語らんすを聞イては、どうかふ成らぬわいな、それに何ンじややらあほうらしい、と聞よりコレ染菊さん、此花世がまヘで、そんな咄しはいやでござんす、わしや内匠さんのかはひらしいふし事が、ほんに/\身にしみじみとしみこんだ物、脇の噂は耳へも入らぬはいなと、互に水かけ論、井筒屋のあふよが中から、いや/\大西の佐和太夫さん、あれが真実かはひらしいといふ物、おまへ方の物好は、大きな間違ひじやと、又いさかひ若やぎもや/\と、後は女郎のあるまじい、そろそろ上着の肩ぬぎかけてのせりふ、大臣もあきれ果、末社にいひつけ、両方たゝきつけさすれば、いかないかなみぢんもおさまる氣色のなき折から、勝手口より牽頭の伝三、御注進と出來れば、大臣扇を上ゲて、何とて最前よりは來ぬぞ、おそい/\と御意の内、伝三畳に頭を付ケ、委細あれにて承る、それに付キ旦那にお願ひの一通と差出せば、幸介それにて披見せよと、仰に取あへず読上る、一何々明七日の夜、当所におゐて碁盤人形、人形やつし狂言興行仕候、上るりは三芝居、立ものゝ太夫衆、罷出相勤申候、御慰がら御來駕下さるべく候、ムゝこりや則其方が会するものか、されば当年、いまだ引初語初も致さねば、我々が国太夫のひんぬき、旦那の御意に入レたく、ことには明晩、此一座の君達御誘引遊ばし御出なされ、いづれも御贔屓なさるゝ太夫衆の浄るりを御聞なされ、其上にて互に恋あらば、御とりもち申さん、それをきぼに今晩の所、旦那を始我々がもらひましたと、あじな所へもつて参れば、今迄赤き顔色も、忽ち柔和の姿をあらはし、襟付帯のまはりをなでゝ、相好を粧ふ心は、粋とても色に目はなく、何事もお頼み申ますと打とけた穿鑿、サァ埒が明イた、万事は明晩々々と、大臣も御きげんよく、打つれてお帰りあれば、一座の女郎も銘々の館へ立帰り、あすの夜を待あかしぬ、明れば床脇にみすをかけ、燭台数をならべ毛毬敷つめ、大臣のお出遅しと待ゐたる、程なく御約束の女郎達引つれられ、牽頭末社がそゝり立、座敷に直らせ給へば、スワ狂言もはじまり、みすの前にて身ぶり所作事、古けれど『無間の鐘』、アノ内から語るは内匠さんじやそふなと、ぞく/\おどれば、次は『やすな物狂ひ』、笹屋の呉竹相つとめます、上るり政太夫と張紙すれば、サァこちの太夫様ンじやと聞耳立テ、どうやらいつもと違ふて、しんきな所があるはいなと、思ひ/\にうつゝをぬかしての見物、程なく祝儀はお定りの長生殿、此太夫相つとめますと、既に語り出する折ふし、又もや/\女郎衆何やら云上り、そんなら互に太夫さんがたに、直々に逢ての事と、床のみす引ちぎれば、此里に名代の牽頭、五六人ばら/\と立出、粋さまがた深い所へお出なされた、ナント旦那、私が内匠太夫の真似、おそらくてんとれでござりませふかと、いな光りの雲八がじまん顔にいへば、万助は政太夫を漸々飲込ましたと、笑ひ/\出れば、会本の伝三、夜前勝手にてふと思ひ付いた趣向、何ンとどうでござります、此太夫さまのまねで祝儀せふと思ひの外、君達の御はづみ、さらば恋を叶へませうと、皆々打つれて床よりおるれば、いづれも明た口ふさぎもやらず、一座の女郎も、月夜に釜ぬかれた顔付、とかう詞もなければ、大臣もコリヤ出かしたと、ことない大笑ひになつて、さりとはきついおはまり、サァ/\中直しに銚子々々と、又さはぎ立テば、大臣しかつべらしく、イヤ/\此分では君達の心の程もいかゞなれば、いざ皆々打より、三芝居の上るり評判せぬか、是は旦那かはつた趣向、いかさま役者の評判はあれども、浄るり太夫の評判なし、銘々が心のたけを、随分と仰られいと、たかりかゝつていひ勝の世の中、ゑこひいきなしに、マァおまへから、イヤそこからと、両方がいさみ立たる春げしき、にぎはふ御代ぞめでたき、

 

 

大坂三芝居操評判

      竹本義太夫座

      豊竹越前少掾座

      陸竹小和泉座

 

△浄るり太夫之部

     見立扇子づくし

大上上吉 豊竹上野少掾 内匠太夫事

  御名は四方にかゞやく檜扇子

上上吉 竹本政太夫

  師匠の名まであげはの朝鮮扇子

上上吉 竹本島太夫

  御出世は次第々々に末廣扇子

上上士 陸竹佐和太夫

  声がらはきやしやで奇麗な京扇子

上上吉[白] 豊竹駒太夫

  評判に乗てくる見物を招き扇子

 

上上吉[白] 豊竹陸奥太夫

  御口中もさつぱり自由に廻るからくり扇子

上上吉[白] 豊竹上総太夫竹本紋太夫事

  御名を聞ても好もしい箱入の銀扇子

上上吉[白] 竹本錦太夫

  節付の名人身内が拍子扇子

上上吉[白] 竹本文字太夫

  聞からに花やかな間拍子のよい舞扇子

上上士[白] 竹本百合太夫

  うつくしさは粋らしい加賀扇子

上上士[白] 豊竹宋女太夫

  よい/\と声諸共うき立つかざの扇子

上上士[白] 豊竹伊世太夫

  やがて難波の指折に一ッニッ三ッ扇子

上上士[白] 陸竹伊豆太夫

  音曲の行儀くづれぬ中啓扇千

上上士[白] 豊竹元太夫

  どこやらに見込のある墨絵の扇子

 

上上[白] 陸竹富太夫

  うれい事は互にしぼる袖扇子

上上[白] 陸竹桐太夫

  お声のはつきりはいさましいぢん扇子

上 陸竹弥太夫

  末たのもしき御功者追附左り扇子

上 豊竹春太夫 上 豊竹鐘太夫

上[白] 竹本友太夫

上[白] 陸竹美和太夫 上[白] 陸竹常太夫

上[白] 陸竹初太夫

 

総巻軸

大上上吉 竹本此太夫

  御功者に見物も耳を揃へた金扇子

 

△三味線之部

 

上上吉 鶴澤友治郎

  御名人の評判は今にめいらぬ調子扇子

 

上上吉 野澤喜八郎

  お上手のうはさは光りかゞやく砂子扇子

上上士 鶴澤平五郎

  糸による鹿ならでいかな女中も色地扇子

上上士[白] 竹澤弥七

  ひきしめるねじめはうつくしい塗骨扇子

上上 野澤文五郎

上 富澤正五郎 上 竹澤音五郎

土 鶴澤本三郎

 

△人形之部

  見たて筆づくし

大極上上吉 吉田文三郎

  隠れなき名人評判は大文字筆

 

上上吉 藤井小八郎

  おやまの開山やはらかなかな書筆

上上吉 豊松藤五郎

  世の人のおしなべて重宝がる日記筆

上上吉 若竹東九郎

  いつ見ても当りめのきく真書筆

上上士口[白] 桐竹門三郎

  身ぶり風俗いふにいはれぬ舌を巻筆

上上士口[白] 中村勘四郎

  能々の評判は幾年云ても果しなき万年筆

上上士口[白] 桐竹助三郎

  取廻りの利口さいつでも間にあふ矢立筆

上上士 藤井小三郎

  女のふうは其儘うつくしい絵筆

上上吉[白] 山本伊平次 

  思はくの功者誰でもひいき有馬筆

上上吉[白] 吉田才治

  心のたけを自由におもひ入書上た焼筆

 

上上士[白] 淺田祐十郎

  立役の真行草覚へ込んだ手習筆

上上士[白] 笠井藤四郎

  しつぽりうつくしう角のないしんなし筆

上上士[白] 三浦新三郎

  いつ見ても見ばへのするうは絵筆

 

竹本芝居頭取 吉田文三郎

   同   吉田三郎兵衛

豊竹芝居頭取 藤井小八郎

   同   豊松藤五郎

陸竹芝居頭取 笠井藤四郎

   同   芳川勘之丞

右之外名人の人形役者あまたあれども、略してあらましを爰に記す、

 

浪花其末葉

 

△浄瑠璃太夫之部

大上上吉 豊竹上野少掾

  評判師延四大臣「さあ/\皆打寄つて云ふて見たがよい、此人越前殿一世一代の出語(がたり)の折[北条時頼記 延享2.11.3 三絃野沢喜八郎]から、内匠といふ名を、上野少掾と受領(しゆれう)なされたも無理ならず、おそらく三ヶの津に肩(かた)をならべる者はない、女郎染ぎく「是あたりに人もなげな事いひなんすな、今三ケ津に上手といふは、西の此太夫さん、それになんじや、肩をならべる者がないとは、おまへ方の耳はどこに付イてあるぞいな、女郎花よ「何いはんす、上野さんは、大上上吉と云ふのはまだ不足な、なぜ極の字にしてくださんせぬ、地事ならふし事なら、何にいはふ所のない、こちの太夫さんじやわいな、たいこ伝三「まあ/\お待なされ、成程御両人のせり合尤に存る、しかし此太夫殿の事は、此太夫どのゝ座敷で申そふ、先此人内匠理太夫の御子息、勝次郎とかやいひし人、始は諸国へ御出にて、それより豊竹座へ身をよせ、三輪太夫と名付て、『南北軍問答』[享保10.3.3]の前後より、すでに『時頼記』[北条時頼記 享保11.4.8]の二の奥など語られし時より、はつきりとしてよかつた、しかしながら詰詞ちと申ぶんありしが、程なく出羽芝居にて、和泉太夫殿共外二三人打寄、『前内裏島』[前内裏島王城遷 享保17.12.12]といふ新上るり興行ありしが、様子あつて相止、それより江戸へ御出にて、段々評到よく、二度大坂へ御登り、竹本芝居にて親の名をすぐに、内匠太夫と改め出給ふ時は、『蘆屋道満大内鑑』[享保19.10.5]かと存た、いにしへ承つたとはきつい相違にて、聞人感じ入、是程にも能クなる物かとの取沙汰、又々越前殿芝居へ御戻り、只今上野と成り給ふは、大きな御出世、わる口女郎「其様にほめさんしても、去年の冬は何ンとやらもや/\と、御浪人のやうにあつたそふな、それでがんりう島[花筏巌流島 延享3.11.17?]の浄るりも、しか/\ぬしのふし付さんした所もないそうな、どうしたわけかしらぬ、したが又おつとめなさんすそふな、大臣「そんなこといふまい/\、毎年十月切りの折極の時分は、左様な事はいづれにもある事、しかしその事も有り、二ッには越前殿、もはや役儀はおつとめなけれど、いまだ御存生でござるゆへに、極上上吉といたしたい所を、極の字を遠慮いたして大の字に仕つた、何ンと無理でござるか、ことに此度『裾重紅梅服』(つまかさねこうばいこそで)[延享4.2.5]の上るり、殊之外の評判、とにかく功者(こうしや)にして、節(ふし)事わけてはんなりとよし、今少(すこ)しお声あらばといふ噂(うはさ)もあれど、それは十ぶんと申物、慾(よく)には限(かぎ)りのないうき世、巻頭は此人々々、

 

上上吉 竹本政太夫

  延四大臣「此人助ケ分ンにて竹本座へ御出、『真鳥』[大内裏大友真鳥 寛保3.10.25]の二の詰、前方より得てござるよし、中々聞事なれ共、浄るりこまへにて、幕の通りいかゞと存る所、つゞいて『児源氏』[児源氏道中軍記 延享1.3.6]二段目の詰、うれひしゆらをまぜての段切、扨々面白(おもしろ)く、それより『西行』[軍法富士見西行 延享2.2.13]の二の詰、団(だん)七[延享2.7.16]から『楠昔噺』(くすのきむかしはなし)[延享3.1.14]、次第(しだい)/\にお声も大きうなつて、座本は勿論政太夫もお仕合/\、わる口中間「あんまりほめまいぞ、此お人の浄るりは、もち/\とねばついて、どうやら時によつては口中に地黄煎でも入レてあるやうな、たいこ幸介「ホゝウ尤な御ふしん、しかれども此度『菅原伝受』(すがはらでんじゆ)[菅原伝授手習鑑 延享3.8.21]の二の詰(つめ)、菅丞相(かんせう/\)道明寺のおばご、かくじゆに別れのうれい、ふせごの内にある娘かりや姫を、しらぬふりにてよそながらのうれひ、位(くらひ)事なれば、浄るりにも位がつかねばならぬ、四段目の口怒(いか)りの段など又各別(かくべつ)よし、総体位事はあのやうに語らねば、勿体がなふていやしう聞へる物、武家事世話事になつては、又々次第に御功者に語らるゝでござらふ、もとざこ場にて十兵衛殿と申たれど、小政々々と異名する事、過ゆかれた播磨どのにいきうつしじやといふ心で名付たるは、誠に無理ならず、次第に立身あらば、おそらくあるまいと存る、

 

上上吉 竹本島太夫

  堀江組曰「幾竹屋平右衛門とて、こちの島で名高いお人、声大場にして、うれひせりふともにはつきりとしていやみなく、修羅といひどうもいわれぬお上手、政太どのゝ下へはなぜさげた、いひわけあらば聞ふ聞ふ、わる口中間「いや/\、そのやうにりきまるゝな、もと島太どのゝ癖に、節落しの引捨、あるひは地のとまりにも長ふひかるゝに申分あつて、物の売声のやうにもあるといふ人がござる、あまりほめられもいたさぬかい、延四大臣「こなたのいはるゝのは評到じやない、そりやわる口といふもの、引すてのとまり、わるいのはいひ人があつて直りました、尤生れながらの孔子も有ルまい、又うれひ事は実がいらいで、しつぽりとせぬといふ人がある、しかし此度『手習鑑』(てならひかゞみ)[菅原伝授手習鑑 延享3.8.21]の四の詰、たけべ源藏かんしう才をかくまひゐる所へ、三ッ子の松王丸、我子小太郎を手ならひにおこし、跡より討ッ手に來り、我子の首(くび)を身替りに受取立帰(かへ)り、後に來り段々のうれひ、野辺送りと我子の死がいを乗物(のりもの)にのせ、さいのかはらの砂手本(すなでほん)、つるぎと死出(しで)のやまけこへ、あさきゆめみし心地しての段切、町中の三ツ子まで口まね、竹本芝居にて座中見物(けんぶつ)が涙をぬぐふゆへ、めつきりと鼻紙(はながみ)の相場(そうば)が高いとの噂(うはさ)、是でも実がないとは申されまい、猶此上に心を付ヶ給はゞ、鬼にかな棒なるべし、

 

上上士 陸竹佐和太夫

  思はくの女郎「さあこちの太夫さんじや、声といひ節といひ、其癖男ぶりまでいふ所のないお人、わしや此さんを巻頭にしてほしひわいな、たいこ万介「成程女中の心に左様に思し召ももつとも、しかしながら此人の浄るり、殊の外お上手にて功者なれども、いかにしてもちいそうて、おしい事じやとの評判、もとより男ぶりがよいとて、それが浄るりの爲になるものでござるか、大臣「こりや両人ともに尤、成程此人の上るり、きれいにして先御功者、始は陸奥の門弟にて、それより播磨どのゝ門弟となられしよし、今に風儀残りあり、小兵なれども,一方の大将となり、去冬(きよふゆ)より『女舞劔紅楓』(をんなまひつるぎのもみぢ)[延享3.10.21]六ッ目、いひ名付のおそのと半七と、三かつが心底(しんてい)の不(ぶ)心中なといふせりふ、それよりたとへていはゞ、みやま木とみやこの花、りんきせまいとたしなんでゐても、なさけなやといふ替りぶし、町々も口まねする程の事、先はお上手の程見へました、承れば尾張にては飛鳥もおちたと申噂、うそで有ルまいと存る、当地にてはいまだお名染なきゆへ、しか/\とした事もござらぬ、猶春永に申そふ、

 

上上吉[白] 豊竹駒太夫

  延四大臣「古今珍らしき太夫どのとは、此人まんざらのしろとにて、何国の座へも御出なく、すぐに豊竹へ御住なされ、『真鳥』[大内裏大友真鳥 不詳]の三の口が目見へ上るり、以前の大和太夫の真似にて、中々おもしろかつたゆへに、則その時の上るり『かるかや道心』[苅萱桑門筑紫 享保20.8.15]三の口、『真鳥』の三の口の心持にて、作者より利口にこしらへ渡しければ、其儘大和太夫のふたゝび來るかと、見物も感じ入ました、大きなお手がら/\、島の内連中「いかさま手がらな人なれども、近年は何とやらお声も少々こまへに成り、次第々々にいやみが付クやうに思はれ、いかふきのどくに存る、たいこ伝三「いや/\いやみといふ程の事でもござらねども、すべて功者になつて、思ひ入レがふかふなるに随ひ、声がそれにからまれてちいそふなる物、昔のお声で今の御功者あらば、おそらく三ケ津に又有ルまいと存る、大臣「尤ないひぶん、『石川五右衛門釜が淵』[釜淵双級巴 元文2.7.21]の上之巻、傾城瀧川が親の身かはりに死なんと、書キ置の所、硯の海に筆しめすと云ふ所、町中に口まねせぬ物はなかつた、いかさま其時の声と今の声とは余程違ひました、何とぞ昔の御声にいたしたいと存る、去ながら去冬より『がんりう島』[花筏巌流島 延享3.11.17]、此度の『紅梅服』(こうばいこそで)[裙重紅梅服 延享4.2.5]、扨々おもしろいことではある、

 

上上吉[白] 豊竹陸奥太夫

  延四大臣「堀江にて平太殿と申て、常世の氣に応じうけもよく、声ふし共にそろひ、『がんりう島』[花筏巌流島 延享3.11.17]に此人の場を、内匠殿春から語らるゝ程の大役、あつぱれお手がら珍重に存ます、ひいきぐみ「それ程よい太夫さんを、駒太夫さんの次へなほし給ふは、ゑこひいきといふ物、[あ]まりよいしかたではござるまい、たいこ万介「尤でござる、旦那が申さるゝ通り、声がらもよく、あつぱれ聞事でござるゆへ、駒どのゝ上へもあげたふ存れども、駒殿事は、尤近年はちとめいつたやうなれど、此芝居にふるふござる、功者も又それ程の御修行、お声のちいそふなつたといふが疵なれば、どうも跡へは廻されぬゆへ、先此通りの評判でござる、しかしながら此度『裙(つま)かさね』[裙重紅梅服 延享4.2.5]の評は、かさねて申さふ、とにかくお上手、いつでもおもしろいと申まする、

 

上上吉[白] 豊竹上総太夫紋太夫事

  大臣「此人竹本座にて紋太夫[初代]と申て、是迄評判よくお勤めなされ、此度[裙重紅梅服 延享4.2.5 但し 花筏巌流島 延享3.11.17に上総太夫出座]上総太夫と改め豊竹座へ御すみ、相かはらず何ンでも御功者に、しつかりとして人々のうけもよく、実(み)をいれて語り給へば、きめなどもよふきくゆへ、次第に御出世、先達て『手ならひ鑑』[菅原伝授手習鑑 延享3.8.21]の道行、二の口など語られた、それより此度などは、なを/\聞増ておもしろふ覚へまする、

 

上上吉[白] 竹本錦太夫

  たいこ幸介「第一かはつた節付能なさるゝ、ことに拍子よく御功者にて、ちよこ/\めづらしき思ひ入レなど承る、つめ修羅のたぐひもあつぱれよし、わる口女郎「此おさんは錦武さんごいふた時は、町でことの外人の嬉しがつたお人、播磨さんのうつしを語らんした、それから豊竹座へはいらんして、和佐太夫といふた時は、それは/\きついものじやあつた、どうしたことか次第々々にめいつて、又竹本座へ御出なんした、なぜ大きなひやうばんがないぞいな、大臣「尤々、しかし其折節よりも、浄るりはきつふ御功者に御成なされた、功者になればふしにからまれ、おのれとこまへになるによつて、めいる様な物なり、近年(きんねん)竹本におすみなされて、近比(ちかごろ)では『西行』[軍法富士見西行 延享2.2.13]の二の口、謡(うたひ)うたい靭負(ゆきへ)が西行に逢(あふ)て互(たがひ)のしうたん、町中がよろこびました、『楠』(くすのき)の三の口[楠昔噺 延享3.1.14]おかしうてたまらず、ことに此度『手ならひ鑑(かゞみ)』[菅原伝授手習鑑 延享3.8.21]の序(じよ)の切、菅丞相とらはれと成給ふ所中々よし、

 

上上吉[白] 竹本文字太夫

  大臣「一両年前豊竹座御勤(つとめ)なされ、それより尾州(びしう)へ御出にて、彼(かの)地もことの外首尾(しゆび)能(よく)、去年[延享3]御帰りより竹本座へ御有り付、則『手習鑑』[菅原伝授手習鑑 延享3.8.21]紋太殿の役を其儘(まゝ)おつとめ、二の口五段目の節事迄、中々見物のうけよく、紋太殿よりよいといふ人もあれば、お仕合/\、

 

上上士[白] 竹本百合太夫

  大臣「此太夫殿の御門弟とやら承りました、中々御功者にて声もよく、今もつて聞ごとでござる、此度[菅原伝授手習鑑 延享3.8.21]序(しよ)の中三の口、あら事はつきりとてひしく、拍子(ひやうし)よければ、次第に御立身でござらふ、梅王桜丸を車のうへより、時平(しへい)がぎせいしてにらむ所、てづよふてよし、

 

上上士[白] 豊竹宋[采]女太夫

  たいこ万介「此人折には、河内太夫の風儀を御うつしにて、一トふうおもしろく、ことの外はねたることもなけれ共、なか/\御功者にて、尤声がよく聞へいやしからず、めつきりと御出世にて、追附上上吉にも御成りなされふと頼もしう存る、猶此上にも御精出され、大鳥ともいはれ給へ、

 

上上士[白] 豊竹伊世太夫

  たいこ万介「此人出生はしらねと、近頃島の内三休橋筋に、親御ご御一所に御商売なされし折から、殊の外音曲お好にて、それよりそここゝと御出にて、ついに豊竹座へ御すみなされしに、わけて評到よく、第一声よく、ふしなども利口に取廻りよく、御器用なれば、追付上座へ上ゲまするぞ、

 

上上士[白] 陸竹伊豆太夫

  大臣「ぬしや彦兵衛といふては、誰しらぬ者もなく、他国へござつても二三とさがらぬお人、中音にて声がらよく、尤ふしこまかにして、道行景事よし、ふるい事など能御存と承りました、わる口仲間「此人のやうな古風な律義な上るりは、百ねんもさきの人に聞したらよからふが、今の人のみゝへは、本堂で茶漬喰ふよふで、抹香くそふてどふもならぬ、たいこ万介「大きな間違ひな事をいふやつがある、尤当世の様に端手にはなけれど、先浄るりの行儀くづれず、第一たつしやにして、うれひしゆらにても、実をいれてつゝ込んで語らるゝ、『女舞』[女舞剣紅楓 延享3.10.21]の四ツめ、宇治や久貞子息(むすこ)市藏を、藏(くら)の内へおしこめておいたるうれひ、幕(まく)切までしつほりとしてよし、此人が古風でなく当世を飲(のみ)込、声に今少し場(ば)あらば、只の人ではござらぬ、道行ふし事どうもいわれぬ程おもしろし、

 

上上士[白] 豊竹元太夫

  たいこ幸介「京都よりお下りなされ、豊竹座御出の日より、わけて町中の評判よく、扨々お仕合ではあるぞ、上るりの功者女「此元太夫さん、京下りに『時頼記』[北条時頼記 延享2.11.3]の四の詰、おもしろい事でござんしたが、それから後は、其時程にはわしや思ひませぬ、どふしたことでござんしよ、大臣「御ふしんもつとも、めい/\の得手ものといふは、各別なものなり、ことに其以前越前殿語られた口うつしを、仰らるゝによつて、一倍よふ聞へました、それよりのちは自身の節付なれば、左様には結句ないはづ、何にても形のあることは、致しよい物でござる、しかしながら中々驚入つた音曲、追付御出世頼もしう思はれます、

 

上上[白] 陸竹富太夫

  大臣「声花やかにして、上地かんの所なご身内がちゞむ程よし、ばくろ町いなりにて、六兵衛とよばれ、大坂一枚になびかし給ふ程あつて、中々承り事、しかし其時のお声とは、いかふおちたやうに聞へまする、根が元手ある声なれば、此三勝[女舞剣紅楓 延享3.10.21]の五ツめ、むしやうにおもしろふ覚へました、かねのかはりに女房(ばう)になれと云ふ所など、どふも/\、たいこ忠七「こりや一番旦那の誤りでござります、尤かんをはりあげた所などえもいへねど、浄るりの行儀がくづれて、詞やら地やら何やらわからぬやうに聞へます、大臣「まだな事いふやつ、もと此人の浄るりは稻荷(いなり)で、東の上るりは越前殿の場(ば)、西の上るりは大和太夫の場と、一日替(かは)りにおつとめなされた、それゆへ両方の口うつしが一ツになつて、今に其癖(くせ)がなをらず、越前殿やら大和殿やら知れぬゆへ、行儀がくづれたやうな、とかくうれひのかんをずつとあげらるゝ所は銀箱々々、

 

上上[白] 陸竹桐太夫

  大臣「此人当地初(はじめ)て、此芝居御つとめ、節(ふし)も相応(さうおう)に御付なさるゝ、此太夫殿の門弟のよし、此度『女舞』[女舞剣紅楓 延享3.10.21]の二ツめ、にせ侍(さむらい)金(かね)受取ル時、大序の夜番(やばん)を殺す所など、はつきりとしてよし、今少し御師匠の御功者あらばと存るが、随分御精出され肝要々々、

 

上 陸竹弥太夫

  島の内蓮中「此人錦殿の御門弟のよし、おどけたる所さはぎなどおかしく、おもしろきふしなどよく付らるる、御師匠のおかげか拍子よく、うれひ事は少シ申ぶんあれ共、先ことの外お達者にて、役替りなどよくおつとめなさるゝ、此上ながら語り口に御念御入、国太夫文弥など、多からぬやうにたのみます、

 

上 豊竹春太夫 上 豊竹鐘太夫

上 竹本友太夫 上[白] 陸竹美和太夫

上 陸竹常太夫[白] 上[白] 陸竹初太夫

  大臣「右六人の衆中、少しづゝ不同あれ共、いづれも御功者にて、声がらしごくよし、しかしながらいまだ大きな場を一ト場も御受取なく、評判いたしがたく、それゆへ此度は一所に申ます、猶かさねて申そふ、随分々々御出世なされ、上々吉の黒いのにあやかり給へ、

 

総巻軸

大上上吉 竹本此太夫

  大臣「むかし/\合羽商売なされた折から、殊の外お好にて、御精出されたるしるしにや、段々の御出世にて、伊太夫と名乗方々へ御出なされ、いにしへ出羽芝居へも、ちよとおつとめなされたかと存る、それより竹本座[太政入道兵庫岬 元文2.10.10]へ相すみ、此太夫と改[小栗判官車街道 元文3.8.19 美濃太夫から改名]、播磨殿存生の時、引廻し給ふよし、只今大鳥と成り給ふ、きついお手がら、ひいき女郎「其やうにほめてくだんしても、巻頭にしてもくだんせぬ、何ンぞ又思はくがあるかしらぬ、わしが心にもなつて見さんせ、わる口女郎「これそないにひいきさんしても、此太夫さんはなんぼでもてうしがあがらぬ、大入の時は聞へぬよふな事がある、そんな人が巻頭にはならぬ/\、大臣「両方だまれ/\、其か壱越か半越の調子にて、あれ程に大びらに語らるゝ所、御功者と申そふか、いやはやどうもいへぬ、三ケの津に一二とさがらぬよふに存る、それゆへ内匠殿と此人を、巻頭巻軸に引わけました、上野殿は受領だけといひ、くらべては此人を軸になほしたがむりではあるまい、此度『手ならひ鑑(かゞみ)』[菅原伝授手習鑑 延享3.8.21]三の詰(つめ)、ちやりまじりにて、白太夫が梅桜(さくら)松三本の木に膳(ぜん)すへて挨拶(あいさつ)のせりふ、それより桜丸が切腹の所、うれひの念佛思ひ入ふかく、段切迄扨々驚き入ッたお上手、どうも/\、

 

△三味線之部

 

上上吉 鶴澤友次郎

  播磨(はりま)殿此世を去り給ふ砌(みぎり)[延享1.7.25]、此人も芝居御引にて、いかゞなられしと思ひしに、去々年(きよ/\ねん)[延享2]陸竹芝居京都へ登ル折から、一ケ月御つとめ、佐和太夫と鐘(かね)入[用明天皇職人鑑 延享2年]の出語り、都にてお上手の評判、一座も大当りにて、それより竹本座へ又々お戻(もど)り、むかしより此しばゐにて聞なれたる撥音、いつきいても聞あかぬと、いづくの人も申ます、

 

上上吉 野澤喜八郎

  いにしへの喜八殿は、豊竹座にて初メの時頼記の出がたり、其時の三味線ことの外町中の評判、それより世上喜八どの御功者にて、一ト風かはりはでなる思ひ入、友次郎殿のかうとう成ルと打かへて、又おもしろいとのうはさ、つゞいて又喜八殿も、それにおとらぬ御功者、見物のうけもよく、聞人感じ入ります、

 

上上士 鶴澤平五郎

  此人もなか/\御功者にてひやうしよく、合の手のり地など、あつぱれ聞事でござる、

 

上上士[白] 竹澤弥七

  竹本座に御つとめなされし所、いかなる事にや、いつ比よりか御引なされ、去々年[延享2]曾根崎新地にて、明石越後座へ御すみなされ、それより其冬陸竹芝居、『唐金茂右衛門』[唐鐘茂右衛門東鬘 延享2.閏12.1]より御つとめ、此度『女舞』[女舞剣紅楓 延享3.10.21]に二の口取りに少し計りの琴(こと)、聞及びました、『歌枕(うたまくら)』[歌枕棣棠合戦 延享3.8.1]の時胡弓(こきう)を承つた、いかさま御器用(きよう)な事、猶とつくりと承りたい、右の外三味線あまた有、御休の方も大勢あれ共、いづれも名人にて、評仕るとても同じ事ゆへ申ませぬ、春

永々々、

 

△人形之部

大極上上吉 吉田文三郎

  島の内連中「扨もある物か、是程の名人又あるまい、人形の氏神かと存る、思ひ入レいきかた、其外道具の思ひ付迄がよいと有ル、三ヶの津はおろか、唐天竺にもあるまいと存る、きつい御名人ではある、わる口中間「あんまりほめてもらふまい、それ程の名人なら、何もかもよいはづなれど、立役は若男でも老人でも、あつぱれどうもいへねど、おやま人形女形は、どうやらしんきな所がある、それでも名人か、ひいきぐみ曰「やいうつそり、目の見へぬものか、東西子が見たらば、そんなことはいはふかしらず、人心地のある者が、何ンのそんな事いわふぞい、大臣「是はけうとい御ひいき、したが両方ともに無理ならず、なるほどおやまの方は、立役から見ては、さのみそれほどにはなけれど、なかなか及ばぬ事、ほんに人形がいきて働きます、

 

上上吉 藤井小八郎

  大臣「今おやまは此人にならぶ者なし、身ぶりよく拍子迄がきいてある、太夫地女それ/\の風そなはり、いにしへの辰松殿、藤井小三殿にもおとらぬ御名人、いかな/\人形とは思はれませぬ、中々御功者はどうもいへぬ、

 

右の外名人の人形あまたあれ共、此巻は浄るりの評判なれば、是を略いたします、くわしうはかさねて申ませふ、先此御両人は、竹本豊竹の両芝居にてならびなき方なれば、爰にあらはし評仕る、

 

竹のそのふの其末葉、三つのやぐらに音高く、朝はとふから/\の、たいこのひゞきに諸見物、ゑいとうゑいどう木戸口は、宝の山や蓬莱の、松竹いはふ君が代の、おさまる御代ぞ久しけれ、

 

正本屋 平兵衛板

 

浪花其末葉 終


 

提供者:山縣 元 様(2003.10.19)

(2005.10.10補訂)